レジーのブログ(旧)

15/4/23 昨今の諸々を踏まえて移管します。詳細は最新記事をご確認ください。ブックマークいただいていた方は変更をお願いします!

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『ソーシャル化する音楽』を弊ブログのサブテキストに勝手に認定しました

レジー「前回のエントリーがそこそこ反響があったこともあり、その記事で紹介したサルソウル関連のCDをまとめて聴いてみました。この辺楽しいね」

司会者「この界隈の雰囲気はいろんなJ-POPの元ネタになってますね」

レジー「オザケンの「強い気持ち・強い愛」の出だしの部分って、ロレッタハロウェイ「DREAMIN'」まんまなのね」



司会者「サンプリングしたみたいなクレジットはないですよね確か」

レジー「まあ何かこの辺は時代性を感じるわな。「引用」とか「オマージュ」とか「パクリ」とか線引きが難しいよね」

司会者「言ったもん勝ちの部分はあるし、聴き手がそのあたりのストーリーをどこまで脳内補完するかみたいな話もありますからね」

レジー「そうね。このジャンルは引き続き掘っていきたいと思います」

司会者「そう言えば前回記事のラストで『ソーシャル化する音楽』の話をしましたが、読み終わりましたか」



レジー「読み終わりました!いやーこれすごい面白かったよ。こういう視点でシーンを俯瞰している本って意外となかったからね。これ読めば「ボカロってなんだかわからん」とか「なんだかんだ言ってロックが最強でしょ」とかそういう話にはならなくなるんじゃないかな」

司会者「著者の円堂都司昭さんは他にも面白そうな本を何冊か書かれています」

レジー「「ゼロ年代の論点」は2年くらい前に読んだよ。これも思想シーンの概観がわかって良かった。いろんな事象を整理してお話にするのがものすごく上手な方だなと僭越ながら思いました」



司会者「結構このブログと問題意識というか扱ってるネタは近いですよね『ソーシャル化する音楽』は」

レジー「そうなんですよ。このブログも最近の記事は読んでいただけてるとのことでとても嬉しいですわ。ここを読んでいただいている方は『ソーシャル化する音楽』も絶対ハマると思うので、ぜひ読んでいただきたいなと。というわけで、今回、あともう1回くらいかな、この本の内容についてやりたいと思います」

司会者「わかりました。この本の章構成はこんな感じです」

序章 祝祭の風景の一九六〇年代とゼロ年代以降
第1章 ガジェット化する音楽
第2章 キャラクターをめぐる人形遊び
第3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ
第4章 音楽遊びの環境(アンビエント)
第5章 浮遊する音楽論
終章 繰り返されるトランスフォーム


レジー「どの章も刺激的でしたが、僕が特に面白かったのは1、3、5章ですね」

司会者「ではその3つの章について順番に触れていければと思います」


第1章 ガジェット化する音楽

レジー「ここではこの本の根幹の思想になる、つまりここ10年のシーンを見るうえでの基本的な考え方となる「分割・変身・合体」というフレームワークが登場します」

司会者「具体的にはこんな感じです」

分割:
様々なレベルで「作品」としてのまとまりを分割、分解する手法(音楽配信→アルバムではなく曲単位、フェス→「アーティストのワン・ステージ」という消費単位をつまみ食い可能な形に)

変身:
音楽の形を変える手法(リミックス、マッシュアップ、着うたなど)

合体:
音楽に関し、それを作り演奏したアーティスト以外の人間がかかわる(合体する)ことによって起きる状態を楽しむ(音楽ゲーム、エア芸、アーティストとタイアップしたパチンコなど)

レジー「このフレームワークに当てはめると通信カラオケってのは実は今の時代を先取りしていた娯楽だった、って話はなるほどなあと思いました」

司会者「宇野常寛さんが「カラオケってのはボーカルを合わせる音ゲーで二次創作」みたいなことをよく言ってますけどそれに近い考え方ですね」

レジー「それは「変身」と「合体」に当てはまる部分ですかね。僕がほーと思ったのは「分割」の部分で、確かに「アルバム単位ではなく楽曲で切り出せる」とかハードディスクに音源をためていくとか、ネット配信の音楽と考え方が一緒だもんね。全く気が付かなかったけど確かにその通りだなあと」

司会者「カラオケ界隈の話に関しては、烏賀陽弘道さんの『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命』が紹介されていました」



レジー「この本も面白いのでおすすめです。で、この章では「エア芸」みたいな話に関連してPerfume、ゴールデンボンバー、ポリシックスのハヤシ、あとはエアギターでダイノジ大地さんが取り上げられているんですけど、この辺の人たちがゼロ年代以降でぐーっと受け入れられる土壌を育てたのは90年代におけるカラオケという娯楽の国民的な浸透だったんだなあと。こういう感じでシーン全体に「補助線」が引けるのがこの本の価値ですね」

司会者「こういう目から鱗的な視点がいっぱい出てきますよね。合わせて、この章ではロックフェスについても取り上げています」

レジー「この章に限らずたびたび登場するねフェスの話題は。やはり今の音楽シーンを語る上では欠かせない概念ですよね。以前このブログで取り上げたロックインジャパンリア充問題についてもかなりシンクロした記述があったんですけど、それは3章のところでやりましょう。ここで特に面白いなーと思ったのはこんな話。ちょっと長いですが引用します」

CDというパッケージの衰退に伴ってアルバムという作品単位は自明ではなくなり、着うた、音楽配信では曲のバラ売りが当たり前になった。また、複数ステージが同時並行の大型フェスでは、特定アーティストの出演時間をまるまる見るのではなく、途中で切り上げてべつのアーティストへはしごするのも客の自由だ。野外フェスであれば芝生に寝転がり、遠くのステージの演奏をBGMにして飲み食いしてもよい。アルバムという作品やアーティストのワン・ステージといった“まとまり”を気にせず、音楽を断片的に消費されているのが推奨されているかのごとき環境が、現在のリスナーを取り巻いている。アルバム、ワン・ステージといった音楽享受におけるかつての基本単位の解体が、音楽の日常と化しているのである。

司会者「断片的消費の推奨ね。なるほど」

レジー「これってまさに今のシーンの状況を表してるよね。このキーワードは今後使わせていただきたいです」

司会者「この章で紹介されているマッシュアップの話とかは、「断片的消費」によっていろいろな音源が並列で語られるような状況になったことと密接に関係してますよね」

レジー「この手の「データベース化」みたいな話はもちろん目新しい話ではないしリミックスだって昔から行われていたけど、テクノロジーの進歩、というかそういう技術が市井のリスナーに解放されて、ニコ動みたいな発表の場が整備された中でそういう文化がさらに爆発したってことなんだろうなと思いました」

司会者「マッシュアップのところでは吉幾三がネタとして話題になったって話も出てきました」

レジー「吉幾三絡みだとやっぱこれだよね。何回聴いたことか」



司会者「もう何年も前のやつですけど色あせないですよね」

レジー「震災以降は嘘歌詞が東北応援バージョンになってて普通に泣けてくる。何回見てもすごい」

司会者「こういう「オリジナルを大幅に改変する遊び」がリスナー間では浸透する一方で、プロのミュージシャンへの「パクリは悪!」みたいな一義的な批判もいろいろ出てきているわけで、この本ではオレンジレンジの「ロコローション」に関する騒動について触れています」

レジー「これに関してはこの文章が超クリティカルだなと」

潔癖主義的なパクリ批判で指摘されるフレーズの多くが、分割、変身の音楽遊びが常態化しているなかでは、法的解釈はともかく、すでにおなじみでけっこう共有されているフレーズであったりする。こうした環境で素朴に純血主義、潔癖主義の態度をとるのは滑稽でしかない。

司会者「痛烈」

レジー「でもほんとそういうことですよね。以前僕のブログの検索キーワード解析見てたら「トマパイ train scatting パクリ」ってのがあって。あれなんて元ネタも明らかにしてるすごく良心的なお遊びなのに、それを「パクリ」というふうに捉えてしまう感性があるのかと。もちろんたった一人のケースではあるけど、ちょっと考え込んでしまいましたよ」

司会者「以前のクラブに関するエントリーでも少し触れてますが、「お行儀のよさ」みたいなものに関するすごく狭小な解釈が蔓延してる感じはありますよね」

レジー「そうね。「楽しさ」と「ルール遵守」のバランスがちょっと崩れてるのかもね。これは音楽に限らず社会全般の話かもしれないけど。しかしまああれだね、こういう「パクリ論争」みたいな話を見ると、「渋谷系」ってムーブメントは何だったのかって話になるよね。冒頭に触れたオザケンの話もそうだけど、「元ネタ探しが楽しい!」的な煽りもあったわけじゃないですか」

司会者「「レアグルーヴとの邂逅!」的なね」

レジー「そうそう。ちょうどこの前柴さんが「花澤香菜『claire』と「“渋谷系”を終わらせたのは誰か?」という話」という記事をアップしてて、「渋谷系が終わったのは98年」という話があったんだけど。この辺は以前からkenzeeさんも「98年問題」みたいに指摘してる話で、要はこれって「元ネタ=データベースを必要とせずに圧倒的な表現ができるミュージシャンの台頭」って話だと思うんですよ」

司会者「柴さんの記事では椎名林檎、Cocco、MISIA、宇多田ヒカルをあげてますが、ロックバンドでもくるりやナンバーガールが出てきたのがこのタイミングですね」

レジー「うん。このタイミングで日本のポップスのレベルがぐっと上がった、またこういうこと言うと「個人の好みだろ」みたいな指摘を受けそうだけど、やっぱり何がしかの変曲点ではあったと思います。で、こういう強度を持った人たちがのしてくる中で「元ネタが・・・」みたいなこと言ってる人たちがある意味「追いやられた/居場所がなくなった」と。これって、オリジナルですごいものが作れるミュージシャンが増えたという喜ばしい事象だった一方で、過剰なオリジナリティ信仰が進んだ結果「昔のものを愛でる、そこから違うものを作る」みたいな「ルーツ」についての文化が塗りつぶされてしまったって側面もあったんじゃないかなあと」

司会者「その辺は「自己表現至上主義」みたいな話とも密接に結びついてくるんでしょうね。借り物の表現なんてクソ!みたいな」

レジー「本当の意味での「オリジナリティ/個性」なんて存在しないし、必ず何かの影響を受けてたりするんだけどね。この辺の話は、その影響の根源を明らかにしようとせずに「ピュアな自意識の発露」と片付けてしまう音楽言論に関する話にももちろんつながってくるわけですが。この辺は5章に触れる時にやれればいいな」

司会者「わかりました。長くなってきたのでぼちぼちまとめたいのですが、1章について何か言い残したことがあれば」

レジー「そうですね。1章でもこの手の「自己表現至上主義」に触れてる話があったので、最後それを引用して終わりたいなと」

その種の自己表現(注:自分で詞を書いて歌い、感情を吐露したり社会情勢に物申したりする)を尊ぶ鑑賞態度が、曲と歌の分業制(アイドル歌謡、演歌など)よりも、自作自演のフォーク(と日本ではその後継のニュー・ミュージック)やロックを上位にみる価値観を作ってきた。それが楽譜の再現でしかなく自己表現でないという見方からすれば、クラシックはロックより下位になる。

司会者「ロックとアイドルの記事と同じ話をしてますね」

レジー「あの記事では最近の出来事をスナップショットで取り上げたけど、まあずーっとある話なんだよね。しかし「クラシックはロックより下位になる」ってある種の皮肉で言ってるわけだけど、「そりゃそうじゃん自分で曲も歌詞も書いてないんだし」って本気で言う人がいそうな感じがちょっと怖い」

司会者「さすがにそれは、と思いますけどわかんないですね」

レジー「あの記事いまだにぽつぽつ紹介されて衝突を招いたりしてるみたいだからね。きっとこの先も永遠に続いていくんでしょうこの手の話題は。というわけで、直前で引用した部分もそうですが、『ソーシャル化する音楽』は弊ブログとのシンクロ率が非常に高いので、ぜひセットでお楽しみいただければと思います。次回は3章5章まで一気にいけるかな」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」
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