レジーのブログ(旧)

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『ソーシャル化する音楽』感想戦3 (5章 浮遊する音楽論)

司会者「それでは予告通り『ソーシャル化する音楽』の話の最終回といきましょうか」



レジー「この本ちょっとずつ話題になってますよね。柴さんkenzeeさんもブログで取り上げてたし」

司会者「そういえば先日ライターの矢野利裕さんがこの本の感想をツイートしてましたね」







レジー「矢野さんはこのブログでは取り上げない4章が面白かったんですね。読む人の興味関心によって刺さる部分も変わってくると思います。しかしまああれだね、この「感服した」って感想がほんとぴったりだねこの本は」

司会者「確かに。ちなみにkenzeeさんはaikoマラソンを相変わらず続けています

レジー「あれしんどいだろうなあ。ちょうど柴さんのブログで取り上げてた宇野常寛さんの『日本文化の論点』の話、「今の時代の音楽は作品だけ語っても仕方ない、その「外側」も含めて語らなくては」って話と真逆のアプローチだよね。それゆえ「外部」に逃げ場がないっていう取り組みなわけで」

司会者「aikoマラソンが始まるときにそんな感じの決意表明をされてましたね」

これは昨今の音楽ジャーナリズム(ネット界隈の議論含む)への批評なのです。
(中略)
ワタシ、これからアルバム10枚、125曲についてアレコレ言うわけだけどもルールを課すことにします。つまり、CDのなかの音楽の話しかしない。盤と歌詞カード、クレジットがすべて。これが音楽評論の原点なの! 他はいらん! それで間が持つか? 間が持つのがプロなのです。間が持たないヤツが「この音楽は~格差社会における~資本主義経済における商業音楽とは~」とか音楽と関係ない屁理屈で逃げるわけです。


レジー「ちょうど洋楽離れビール離れの話ロックとアイドル話がバズってたタイミングなので、そういう中でちゃんと「音楽」について語る姿勢を見せようって話だったんだよね。しかしまあkenzeeさんもここまで大変なことになるとは思ってなかったんじゃないかな」

司会者「もうこれは応援するしかないですね」

レジー「うん。で、今日やりたい『ソーシャル化する音楽』の第5章はこの辺りの話とも関連してきます」

司会者「改めて章立てを示しておきましょうか」

序章 祝祭の風景の一九六〇年代とゼロ年代以降
第1章 ガジェット化する音楽
第2章 キャラクターをめぐる人形遊び
第3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ
第4章 音楽遊びの環境(アンビエント)
第5章 浮遊する音楽論
終章 繰り返されるトランスフォーム


レジー「1章、3章についてはすでに話してきました。というわけで今回は5章についてです」


5章 浮遊する音楽論

司会者「この章はタイトル通り、音楽を語る言説に関する問題を取り上げています」

レジー「5章の冒頭に「アニメ音楽の非ジャンル性と菅野よう子」っていう項があって、彼女を「ロキノン的自分語り」の対極に位置するミュージシャンと位置付けて論を展開しているわけですが。個人的にはここがこの本の中で一番凄まじかったな。全編引用したいくらい」

司会者「「いわゆる自己表現から距離を置いた裏方の職業音楽家」「様々な悪しき物語化の呪縛から距離を置いた存在」という言葉がありましたが、彼女のインタビューを引用したうえでその姿勢についてこんなことが書かれています」

彼女はクライアントとの会話も、音楽のセッションのごとく楽しもうとしているらしい。
(中略)
ロックもヒップホップも、金や仕事に過剰に意味づけをし、物語性を付与している点では表裏一体である。だが、職業音楽家としての菅野よう子は、自分の仕事に関し肩の力を抜き、もっとニュートラルに接しているように見える。


レジー「ロックとアイドルの話で安易な自己表現至上主義どうよってこと書いたけど、菅野よう子について取り上げれば良かったのか。全然思い至らなかった」

司会者「この話の中で、音楽評論における自分語り批判と「物語化された事件(犯罪)報道に対する批判」が似た構図であるという指摘がありましたね」

レジー「これすでにいろんなところで言われてましたよねみたいな感じで書かれてたけど全然知らなかったな。この部分は結構強烈だった」

ロッキング・オンがロキノンと呼ばれ、マスコミがマスゴミと呼ばれる二つの批判は、ほぼ同形になっているのだから。アーティスト、あるいは犯罪者の成育歴や自意識をほり返し、そこに時代や社会をめぐるなんらかの象徴性を見出すとともに、それを読み込んだものが個人的なコメントを加える。そのコメントが、なんらかの感情移入によって成り立っているように感じられる。

司会者「うーん」

レジー「勝手に意味を読み込んでも本質に迫れるわけではないって話ですな」

司会者「この章ではこの手の「自分語り」「物語化」から脱却するための考え方の一つとして、アナリーゼ、つまり楽曲分析について取り上げています」

レジー「すごいざっくり言っちゃうと、コード進行が、そこに乗るメロディーが、とかっていう音楽そのものに関する話をもっとすることで音楽批評の位相を変えられるのではないかと。これはほんとそうだよなあとは思うしこういうアプローチで音楽を語ってみたいとも思うんだけど、いかんせん一朝一夕にできる話でもなさそうだからなあ」

司会者「ここでは「ポップアナリーゼをもっと導入すべし」という論を展開する人として菊地成孔さんを紹介しています」

レジー「はい。菊地さんは少女時代の「GENIE」をアナリーゼの切り口で分析するなんて面白いこともやってますね。で、ここで取り上げられてる話は菊地さんが参加した『思想地図β vol.1』の座談会の内容なんですけど」



司会者「「テクノロジーと消費のダンス--クラブカルチャー、音響、批評」というタイトルで、菊地さん以外にも佐々木敦さんと渋谷慶一郎さん、あとは司会でこの本の主宰者でもある東浩紀さんが参加しています」

レジー「これ読んだのちょうど2年前くらいか。結構印象的で、今思えば「そもそも音楽批評って」みたいなことを考え出すひとつのきっかけになってますね。東浩紀さんがこういう指摘をしてまして」

音楽にとって批評は必要か、という話が今中心になっていますが、それとは別に、批評にとって音楽は必要かという問題もあると思うんです。ゼロ年代の音楽批評の低迷の背景には、ぶっちゃけていえば、批評にとって音楽が要らなくなったという側面もあるのかもしれない。いい換えれば、社会や時代を語るときに、音楽がとっても使いづらくかつ分かりづらい対象になっていったということもあるのではないかと思います。

司会者「この指摘は重いですね」

レジー「うん。このあたりからポップミュージックの社会的地位みたいなことが気になりだしたし、このままJAPAN読み続けてることにどんな意味があるんだろうかとか考え始めたんだと思います。で、話を戻すと、『ソーシャル化する音楽』では菊地さんがその座談会で話した「総合格闘技も観客が徐々に勝負の決め手(関節技とか)がわかるようになってきた。音楽でも同じようなことができるのではないか」という部分が使われていますが、個人的趣味から言うと引用元で話されてたこっちの内容の方がしっくりきます」

ポップアナリーゼというのは、サッカーのルールを知らずにワールドカップを見る身体性---僕自身がまさにそうなのですが---から、ルールを知って見る身体性へ移行させることであって、それ以上でも以下でもありません

司会者「まあ当たり前っちゃ当たり前の話なんですよね。サッカーライターはみんなオフサイドのこと知ってるわけだし」

レジー「とは言いつつ、アナリーゼをサッカーの例に当てはめて考えると、これって「みんなオフサイドとハンドくらいは知ってた方がサッカーは面白いよ」って単純な話ではなくて、「なぜ今の攻撃がうまくいったか?を具体的に検証しよう」みたいなメカニズムの話に近いと思うんですよね。で、そういう切り口になると、ちゃんとした媒体の記事でもあんまわかってないんじゃないかってやつわりとありますよ。僕が読んでるサッカー関係のブログでそのあたりを相当緻密にやっているところがあるんですが、ああいう話を商業媒体で聞いたことあんまりない」

司会者「読み手がそこまで求めてない部分もあるんでしょうね」

レジー「そうね。だからその辺は受け手側のリテラシーみたいな話とも絡んできちゃうんだよね。で、そのあたりで関連しそうな指摘を菊地さんがこの座談会内で「恋愛至上主義」という言葉を使ってしてるんですが」

いまのポップミュージックほど恋愛は素晴らしいといっているものはないわけで、歌詞の内容が恋人に向けた携帯メールの内容と同じになってしまっている。昔はサザン聴いて○○に似てるよねとか、あの曲はあれとあれのパッチワークですよねとにやにやできる余裕があったと思うんです。でもいまはそんなことは許せない、殺せってところの直前までいっている。この攻撃性が一種の潔癖症というか、ピュアな恋する人間のような状態になっているんですね。
(中略)
恋愛する人が持っている、質の悪い、極端に純粋で、倫理的な感覚が非日常になっていて、これはもうネット内外関係ないと思いますが。


司会者「「理屈はいいんだ、感動させてよ」みたいな話が極端になりすぎてるんですかねえ。そうなると「物語化」されたお話の方がニーズには近いってことにもなりますよね」

レジー「この辺はいろいろ意見はあると思うんですよ。僕自身も、菊地さんの言っている「昔」のリスナー、これがどのくらいの時代を指してるかはよくわかんないけど、ここで挙げられてるようなメンタリティを持っていた人がどのくらいいたのかってのはちょっと怪しいなあと思うし。ただ、ここで出てきた「潔癖症」って話は今の音楽について考えるうえでは一つのキーワードだよなあと」

司会者「この本の1章に出てきた「パクリ」に関する話ともつながってきますよね」

レジー「うん。クラブ規制の話もそうだし、「自分で曲作ってない時点でアイドルはクソ」みたいな話もそう。その「潔癖」を志向するモードを「恋愛至上主義」って言葉で括ったのはすごく面白いなあと思いました」

司会者「「恋愛」って概念は「自分探し」みたいな話ともすごく相性がいいですし、そういう切り口から考えると自己表現至上主義の検証についても違う視座を得られるかもしれないですね」

レジー「「恋愛」と「自分探し」って、「あいのり」の話かと思った」

司会者「懐かしい」

レジー「あれもかなり本質を突いたフォーマットの発明だったんだね」

司会者「そのあたりは速水さんの本でも指摘されてましたね」

レジー「この本面白いですよ」



司会者「話が拡散してきたのでそろそろまとめたいんですが、5章および本全体に関して総括していただければと思います」

レジー「わかりました。まずは5章に関してですけど、常々「もっと音楽の話をしようぜ」って言ってる僕としては非常に面白かったです。で、確かにここで出てくるアナリーゼの手法が本格的に導入されたときに音楽批評がどう変わるかってのは興味深いけど、実際問題として難しいだろうなあという実感があるのはさっきも書いた通り。ただ、音楽理論的な話をすぐにすることはハードルが高くても、「音楽的な取り組み」について語るということはできるんじゃないかと思うんですよ」

司会者「もう少し具体的にお願いします」

レジー「たとえば、ゴールデンボンバーのインタビュー読もうと思って買ったJAPANにアジカンの記事もあったんですけど。インタビュアーが山崎洋一郎さんで、なぜ「今ホールツアーなのか」とか、バンドの編成やステージングの話とかについて掘り下げてて。これすごくいい記事だなーと思ったんですよ」

司会者「JAPANでもそういう取り組みが行われているのか」

レジー「この前パスピエのインタビューやったときはその辺も意識しながら質問したんですけどね。「自意識語り」と「アナリーゼ」の間くらいに、リーズナブルに音楽の話をできる空間が広がってるんじゃないかと思います。というのが5章に関する話。で、この本全体に関してですが、もうとりあえず読んでくださいって感じだね。少なくともこのブログを読んでくださってる人だったら絶対面白いはず」

司会者「そうそう、って部分と目から鱗の部分と両方ありますよね」

レジー「そうね。ちょうど5章の中に「やくしまるえつことカヒミ・カリィを対比させるなら、の子は暴力温泉芸者の中原昌也だ」みたいなことが書いてあって、この接続の仕方はすごく感心したんですけど。前も書いたけど、音楽シーン全体の見通しを良くするための補助線が引ける本だと思います。いろんな細々したことが各所で起こってて何が何だかわからん!って印象を今の音楽シーンに持っている方は、この本を読むことで全体観を取り戻せるんじゃないかと。おすすめです」

司会者「わかりました。3回にわたって『ソーシャル化する音楽』について取り上げてきましたが、一旦ここで終わりたいと思います。次回はどうしますか」

レジー「うーんどうしようかな、最近バタバタしててネタをしこめてないんだけど、ちょっと考えまーす」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」
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レジーさんのブログについて

『ソーシャル化する音楽』感想戦3 (5章 浮遊する音楽論) 毎度楽しみにしているレジーさんの更新だが、今回は個人的に見逃せない記事だったので、久しぶりにブログを書いている

  • 2013/03/23(土) 14:50:29 |
  • raindrops

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